熊本県 菊池川の舟運

日田の京雛のナゾについて、舟運との関係を知りたいと思ったので、国土交通省九州地方整備局のホームページをインターネット上で見つけ、メールを送りました。すると、企画部企画課の平井さんが、あちこちの工事事務所や日田市に問い合わせて下さったようです。しばらくすると、菊池川工事事務所調査課の前田さんが集めて下さったたくさんの資料と一緒に、様々なパンフレットも送られてきたので感激しました。ありがとうございました。
特徴
今の山鹿市や菊池市の方まで、30km〜40kmも、川をさかのぼっていた。
物資専用の舟運
さかのぼる時・・・帆も使うが、風の無い時は、舟に綱をかけ、岸から人や馬がひいてのぼった。
目的・・・流域内でとれた肥後米の集積と、大坂への運搬
下げ荷・・・・木材・菜種(油用)・大豆 
上げ荷・・・・海産物・石灰(土壌改良用)・茶碗・綿・さまざまな文化や技術
高瀬舟ではなく、川平田船と呼ばれ、平均米40俵を積んだ。
菊池川流域⇔高瀬⇔有明海⇔瀬戸内海⇔大坂
川と海の舟運ネットワークの形成によって、流域の米は、はるか遠くまで大量に運ばれた。
大坂堂島の米市場で、全国一の取引量を誇った肥後米の中で菊池川流域の米が半分を占めていた。
衰退の理由・・・年貢米の廃止と鉄道の開通(1917年)
珍しいもの・・・白石堰にある舟通し(農村の灌漑と舟運を両立させるため)・船着場の俵ころがし
豊臣秀吉によって代官に任ぜられた加藤清正が、河口の高瀬・伊倉を拠点として積極的に海外貿易をした。
つまり世界につながる川だった。
わかったこと!
加古川の舟運と比べてみて、高瀬舟よりもひとまわり小さい舟を使っていたが、ほぼ同じ距離を同じように、下げ荷として米を中心とした特産物、上げ荷として塩を中心とした生活用品を運んでいたことがわかった。戻り舟には、上方文化や技術も積んで帰った。肥後米も川と海による舟運ネットワークで大坂まで運ばれたからこそ、全国的に有名になれたのだと思う。

加古川では、田んぼに入れる水を確保するため、高瀬舟の運行は秋から春までと決められていたが、菊池川では灌漑と舟運を両立させるために独特な八の字型の堰に幅約3mの舟通しを作ってあるところがすごい工夫だと思った。

また、河口の中心地が『高瀬』で、流域の川湊から舟で下ることを『高瀬下り』と呼んでいたので、『高瀬』というのは、川の舟運に関係のある言葉だと思う。

送ってもらった新聞の切抜きのコピーによると、2000年10月には流域の市町村が協力して昔ながらの水運を再現、実際に米俵を川と海の舟運で大阪まで運ぶというイベントを行ったそうだ。人々から忘れ去られた川や舟運をもう一度見直そうという活動は、とても大切だと思った。

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