
| 1 | なぜ山形の奥地に江戸時代の京雛が? | ||
| 高瀬舟が使われていた川について調べていくうちに、他の川での舟運はどうだったのか気になり、インターネットで検索すると、最上川の舟運が目にとまった。ここで使われていた川舟は高瀬舟とは呼ばれていなかったが、最上川での舟運は流域の発展に大きな影響を与えたことを知った。 特に、中流にあるべに花で知られる山形県河北町(かほくちょう)は『雛の町』として有名で今でも江戸時代の京雛が残っていて、今でも毎年4月2日、3日には「雛市」が立ち、町内の旧家に所蔵されている雛人形が一般に公開されることを知ってハッとした。 |
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| 2 | 大分の日田と似ているぞ! | ||
| 鉄道関係が趣味であるぼくが、中学生になる前の春休みに『JRチャレンジ九州2000キロ』というJRに乗りまくるイベントに参加するために、家族と九州へ行った時、大分の日田で開催されていた『おひなまつり』で、県内最古の商家「草野本家」にある享保時代から明治初めまでの178体の雛人形を見て全員ビックリしたことを思い出した。 京、大坂から持ち帰った多くの雛人形。中でも吉宗将軍の享保時代の作と伝えられる享保雛の男雛と女雛や総数40体からなる御殿雛など、20畳の座敷いっぱいに飾られた雛人形に圧倒された。 京都に近い兵庫でも見たことがないような江戸時代の立派な京雛が、どうして大分の山奥に残っているのだろう?と不思議でならなかった。 |
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| 3 | 京雛のナゾ! | ||
| 1、山形の河北町も大分の日田市も、京都から遠く離れている。 2、その上、どちらも内陸部に位置する。 3、それなのに江戸時代の立派な京雛が残っている。 共通する『京雛のナゾ』があるのではないかと調べてみることにした。 |
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| 4 | 最上川の舟運と京雛 | ||
みちのく山形のシンボルともなっているべに花。江戸時代、出羽の国特産物の筆頭にあげられ、最上川流域の内陸部で盛んに栽培が行われていた。当時は『最上紅花』として質・量ともに全国一となり多くの豪商、紅花商人が誕生。
べに花が京都に送られる一方、帰り船によって京都から運ばれたのが、『お雛さま』。べに花を扱う多くの豪商たちが買い求め、京から遠く離れたこの地にもたらしたものだった。 べに花は集積地河北から、川舟で最上川を下って河口の酒田へ運ばれ、そこから北前船で日本海を経由して敦賀の港から陸路、京の都へ運ばれた。帰りは、その逆のコースで京雛が河北へと運ばれたのである。 |
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| 5 | 日田の京雛はどうやって運ばれたか? | ||
ぼくは、日田の京雛も同じように、舟運と海運で運ばれてきたのではないか?と仮説をたててみた。自分で調べてみたがよくわからなかったので、草野本家にメールを出してたずねてみた。すると、次のような返事を下さってとてもうれしかった。ありがとうございました。
このメールによって、瀬戸内海の水運を利用したことはわかったが、日田はまわりの山が険しいので、舟運を利用するのが難しかったようだ。江戸時代は各地で盛んに舟運が利用されていたが、限界がある場合もあったのだと思う。 しかし、日田の草野本家は製蝋(ろう)業で、河北はべに花で、共に巨額の富を得た豪商が、遠く離れた京の文化を帰り船を利用して運んできた点では一致していた。 さらに詳しく知りたくて、九州の舟運について検索していた時に、国土交通省九州地方整備局のサイトを見つけ、メールでたずねてみた結果、舟運で有名なのは菊池川だとわかった。 |