与助さんの願い


闘龍灘を見下ろしながら立っている阿江与助像を見ていると、ぼくには与助さんのこんな叫び声が聞こえたような気がしました。みなさんの耳にはどんな声が聞こえますか?
当時は、画期的で最もカッコよかった高瀬舟。300年後、鉄道に活躍の場を奪われ、次に高速道路による輸送へと時代は移り変わっていった。さらに400年経った今、航空機による輸送も行われている。「荷物や人が空を飛ぶなんて!」ちょうど頭の上を飛ぶジェット機を見て、与助さんは腰を抜かすかもしれないなぁ。



「阿江与助」は、加古川舟運開発の祖と呼ばれる人物です。加東郡河高村に生まれ、後に上滝野村の阿江家を継ぎ、文禄3年(1594)には滝野川(滝野以南の加古川)を、慶長9年(1604)からは上流の田高川(滝野以北の加古川)の開削を成功させました。またその功で滝野船座の座元に任じられ、加古川舟運を支配しました。

加古川舟運の開発は二期に分かれます。第一期は、地頭・生駒玄蕃が貢米を輸送するにあたって加古川に注目、与助たちに通船を妨げる川底の岩石を除去し、浅瀬に水路を通させました。財力、衆望が厚かった与助は滝野から大門村(社町)までを担当しました。第二期は領主・池田氏による滝野以北の川さらえ、および新町河岸の造立、高砂港の整備です。与助は田高村の西村伝入斎とともに滝野上流の川底をさらえることを命じられ、慶長11年(1606)に丹波本郷までの通船が可能になりました。

与助の銅像は、大正9年6月、正五位追贈により闘龍灘河畔に建立されましたが、昭和20年春、大平洋戦争のため供出。平成2年5月、「闘龍すくえあ」(元の場所)内に先の台座をいかし再建されました。

わかったこと

阿江与助さんの生まれ育った大久保家は、代々進取の気性にとみ、河高村の庄屋をつとめるかたわら、いろいろな事業をはじめ、そのいずれも成功していたそうだ。与助さんは、生まれつき頭が良く、勇敢で人望も厚かったという。地頭 生駒玄蕃が舟運の開発を命じたのは、阿江家の財力と与助さんのこのようなチャレンジ精神人望を見込んだからからだと思う。

この頃、各地の川の治水や舟運開発に貢献した英雄たちに共通する条件だ。

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